2006年 12月 26日
Mr. J.B.のように・・
尤も、街の賑いはこの一週間が本番、昨日までとはまた違った顔が魅力的で、街を闊歩するのにはより都合のいい期間となります。
ただし、年々街は確実に速く歩きにくくなっているようです。高齢化社会で、お年寄が増えたからというのなら、こちらも今の自分に想像出来る範囲内でしかありませんが、「いずれは自身も通る道」と当然気を遣います。ところが、むしろ私よりも年齢が上の方々は迅速に動いておられるのですね。
街を速く歩こうが、遅く歩こうが、完全に万人の自由だと私は信じて疑いませんが、常に周囲に気を配って動くのが一番のマナーだと思っています。このことによって多少の不自由が生じても仕方がないというのが即ち街でもありましょう。最近、それがない風潮を強く感じます。おかしないい方をしますが「背後に眼がない」のです。「自分の家みたいなつもり」にも見えます。その代りに装置や放送や表示でもって“誘導する”という傾向が甚だしいようです。
当然、電車でも同じ傾向を感じます。一昔ほど前までは、大阪での乗車時の“特異なさま”がよく云々されました。笑いのネタにもされたほどです。それは、乗車を待つのに並びもしなければ、降りる人を待ちもしない・・というモノでしたが、それほどの誇張ではないと私も実感しておりました。
その時を思えば、今はほんとうに“行儀よく”なったように感じます。その一方で、考えられないほどにノロノロする人が増えました。特に若い人で携帯電話を弄りながらなんて珍しくもなく、ムカッとすることもしばしばです。
そして考えるのは、果して根本が解決されたのかということです。ここでいう根本とはマナーのことであります。
どちらの状況を採るかと問われれば、躊躇いなく私は昔の方を採ります。笑い話にされたけど、当時の私はそれで何等不便を感じたことがなかったからです。電車の乗り降りの時(電車に乗ること)というのは譬え毎日の習慣であっても、私のカテゴリーではいわばスクランブルの状態です。当時の人々にとってもそうだったに違いありません。そんな中でごく自然に「背後にも眼を持つ」ことが培われていたのだと思っています。
動きを緩慢にすることが、ゆったりした生き方や、万人に優しい社会に繋がるとは考えられません。況してやそれは社会や他人に強いられるモノでもない筈でしょう。
繰り返しますが、都会でのマナーは即ち、自身の五感を尖らせて周囲を知覚することだと。ひいてはこのことこそが、街に生きる一個の自由な人間の“武器”になるんだと思っています。
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昨日、James Brownの訃報を聞き、些か驚きました。
もちろん、私の年代では彼の全盛時代にかすりもしないのですが、何故か自分の中では「死にそうにない種類の人」に入っていたもので。
映画『ロッキー4(Rocky IV)』にも使われた『Living in America』が彼に触れる最初のきっかけになったのですが、人種的な問題や彼の生立ちというものを、まさにタイトルの意に重ねて感動したことを覚えています。しかし、亡くなったのがクリスマスの日にというのがまた「らしくていいのかも」などと思えなくもないかと。
こちらでは祭りでもなければ人がごったがえすような風景には出会えない田舎ですが、その分、道路ではマナーの悪さ(背後に眼がない)が危なかしくってしょうがありません。でも、自分もその時代に生きているのですから、対処していくしかないですね。
一枚目の写真、私だったら寄りすぎてタメにしてしまうカットです;汗
MR.JB、クリスマスに逝く、、、。
これでまた来年以降のクリスマスイベントが増えました。
かの人なら、とても喜んでくれそうに思います(^^
今に始まったことではなく、昔からよく世を嘆く、嘆く・・愚痴る、愚痴る・・腹膨れますから。いや、そうしてもお腹が出て来たこの頃です。
対処方法は、市川海老蔵の声で「ごめん!」といって通り抜ける、というのが多いかなぁ・・
立錐の余地もない、という状態でなければ、ワザと人の流れに逆らって歩くというのも(この場合は必ず相手に眼があるので)有効ですね。
いずれにしろ、JBのように軽やかなステップで、といければいいのですが。