2006年 12月 20日
シンメトリー
一般的には左右が釣り合っていると捉えられているヒトやその他の生き物の顔貌や躯も、左右対称ではあり得ません。むしろ、ヒトの顔の左右が如何に不釣合いであるかは、知人が鏡を見ているのを後ろから覗き込んだ時に知ることが出来るでしょう。鏡の中には不思議な、かなり違う知人が映っています。あなたは当然のことながら違和感を抱きますが、鏡の中に同時に写り込んだ自分の方はごく普通に見えています。その時、知人はあなたと全く逆のことを感じているのです。
この話は一方で、ヒトとは自身のほんとうの顔というものを自身では知り得ない存在なのだということも伝えています。
左右対称に近いカタチで世界有数の美しい山とされる富士山も、いうまでもなく実際はかなり左右非対称なカタチです。現代芸術作家の中ハシ克シゲ氏は、そんな富士山を敢えて左右対象に合成して見せる作品を発表していますが、そこに現れた“山”は、如何にも不自然で、同時に見慣れた筈のモノに隠れた薄気味悪さすらを提示しているかのようです。
富士山というのは山であり人為の及ばない自然ですが、他方で人工的にほぼ完璧に左右対称に拵えられたモノであっても、周囲までをほぼ完全な左右対称にしない限りにおいては、置かれる場所や環境によって、その左右対称性は些か曖昧なものとなってしまいます。
左右対称的なモノはよく眼にとまります。そして私の場合は、ついカメラを向けたくなります。が、しかし、それが人工的でかつ作為的な左右対称であっても、必ずしもその左右対称的なモノだけを抽出しての撮影が可能かというと、むしろそうでないケースが殆どです。建物自体は完全に左右対称な建物であっても、窓の中に見えるモノが少しでも違うと−−極端にいえばカーテンの襞の見え方一つをとっても−−左右対称ではなくなる訳ですから。左右対称に惹かれた眼と心は、そんな些末な一部分にこそ集中してしまいがちなものですが、ここまでを正して写真を撮るということは、最早当初の興味とは完全に離れた別世界を拵えるということに繋がりましょう。譬え、もしそうやって完全な左右対称形を創出することが出来たとしても、恐らく観る者はいいようのない非現実的さに不安定で落ち着かない気持に陥るに違いありません。
そこまで徹した写真を拵えることには興味がありませんが、前述のように私ももちろん、自然であれ、人工であれ、左右対称的なモノカタチには惹かれます。そして、実際にカメラを向けた時に、実は如何に左右が違うものかを思い知る訳です。
だからといって、撮る興味が失せたりはしません。出来るだけ真っ直ぐに撮り・・果して出来上ったイメージは、ごく普通で、何等特別な緊張感を強いるモノではありませんが、撮る瞬間の私の精神は、左右対称という感覚に満足し、落ち着いています。
どちらも「構成」を捉えた時の言葉のように思いますが、所詮世の中、それ以上の「混沌」が支配する世界です。
あ、フラクタルって言葉も思い出したましたが、、、言葉が続かないです(^^;
まさに仰るとおりですね。それぞれを意識した時点で両者はそのカオスの中にあるのでしょう。
スガ氏もそういう内容のことを歌っているように思いますが、彼の曲(詩)の中でも私が特に好きなものです。
これに関しては、訳語という性格によるものか、珍しく日本語の方が意味をより固定させていて明確ですね。
ホントは私の場合は、アンバランスというのがいいかもしれませんねぇ・・