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鞄の中身 かばん の なかみ : 出かける時は、どうも手ぶらじゃダメ…そんな私の鞄には…?

挫けそうな夜のために−その2

数日前の本題によるボヤキ前編では、OM-4発表前の想い出を振り返ってみました。
今の時代に適わないかもしれませんが、「昔はもっと我慢させられたんだ」という喩えのつもりでもありました。
しかし改めて思えば、長閑な時代だったんですね。
残念なことに、当時の様な長閑さは今はもう何処へやら‥OLYMPUSから待望のデジタル一眼レフが発売されても、もう数ヶ月後には、次期機種の話題(待望論)が盛んに持上がるくらいです。
とても尋常なこととは思えないのに、「だって、それだけ日進月歩の世界なんだから」と多くの人が受け止めているようです。



『弘法筆を選ばず』は「仮令どんな筆を使っても、弘法大師は素晴らしい字が書ける」という誰でも知っている諺ですが、これには「仮令書の神様のような弘法大師であっても(であるからこそ)、満を持して書こうという場合には道具を吟味するに違いない」という裏の意味があると私は常日頃より信じています。
道具は道具でしかありませんが、逆に余りに無関心というのにも私は疑問を抱いてしまうのです。
特にメカに負う写真に関われば、道具たるカメラへの関心が深くなって当然だと思います。
本体はもとより、撮像素子、レンズなどなど・・。
ただ一方で、デジタルカメラの撮像素子にムーアの法則がそのまま当て嵌まるかどうかは分りませんが、あまり頻繁に道具に変更が加えられるのも写真を撮る上で精神衛生上よくないことだという気がします。
どうしても本末転倒になってしまうという意味で。デジタルの世界では「新しいものが正義だ」というのは半ば常識です。
しかし、カメラは未だに半分以上アナログな道具です。
カメラが新しければ即ち、全ての面において道具として優れているかどうかは、どうも疑わしいことのように感じられてなりません。

同時に道具側に全てを求めてしまうのは、果たしてどうなのかと思っています。
他と較べたり、ないものねだりをして云々ばかりするのではなく、ないものはないで、今ある道具を出来る範囲で工夫して使うというのが道具への礼節ではないでしょうか。
いくらモノだからといえ、その向うには間違いなく製作した人がいる訳ですから。
使い込んで自分のモノにするということは、ある程度において道具のマナーに自らも従いつつ慣れる、ということに他ならないんだと考えます。
今は、そうする間などなく、次々と現れる道具を一通り齧る‥不満だけをフィードバックする‥また次の道具が‥という繰返しに陥りがちである気がします。
かくして、デジタル化されたものは多様さを許さないという結果を産み出しているのでしょう。

このように考えてみれば、出来るだけ心穏やかに写真を撮れる状況をOLYMPUSは与えてくれているとはいえはしないでしょうか‥いや、決して皮肉ではなく。少なくとも写真というものは「新しければいい」とは別軸にあるはずで、それを支えるE-1はカメラとしての質の良さ、出来の良さも相俟って、今の時代になかなか経験できない、自身が道具にほんとうに馴染むという機会を与えてくれているように思います。
次機種が3年も出ないから仕方なく使っているのではなく(仮令少し我慢しているとしても)、道具としての質が高いからこそ、そうすることが可能なのだと。

OLYMPUSをずっと使ってきて、ややもすると挫けそうになる夜に、私は自らにこう言い聞かせては(待たされた結果が「OM-4の美談」だけではなかったことには敢えて触れずに)、すぐに手の届く場所に置かれたE-1に目を遣っています。
挫けそうな夜のために−その2_e0101258_15492964.jpg

E-1/ ZD11-22mm 1:2.8-3.5

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by yy2828yy | 2006-10-21 15:51 | OLYMPUS | Comments(0)