2015年 11月 30日
blur: ブレ:フィルムを月に一本使うの会「今月のイチマイ=11'15」
さて、今回のお題「ブレ」は、普通なら好ましくないこととして受け取られているのはいうまでもありませんが、会のみなさまには私の出題意図はお察しいただけているものと思っております。
要するに、一瞬を定着させる静止画たる一コマの写真に、時間の流れと動きを加味する手段としてブレを活用しようではないか、ということであります。
ところで、ブレと一言でいっても、その実体は一様ではありません。
それでも、大きく二つに分類できるのではないでしょうか。
一つは露光時に被写体がブレることであり、もう一つは撮影する側がブレることであります。
ブレがこの双方に生じることもあるのですが、それはさて措くとして、今回私は後者のブレで行くこととしました。
より自分に向いていて、またやり易そうなのは明らかに前者の方だという想いはあります。
何故なら、より絵作りがし易いからです。
被写体ブレは譬えカメラが三脚に固定されていたとしても起こります。
よって、動的表現として利用するケースはよくありますし、20世紀初頭、未来派の画家たちは明らかに被写体ブレが定着された写真からの感化を受け、作品を残しました。
これに対して、カメラブレ及び撮影者の手ブレは、ほぼ間違いなく「失敗」の結果と同意です。
だからこそ、これを逆手にとったラディカルな「反写真的」表現が、1970年頃の森山大道氏や中平卓馬氏ら『プロヴォーク』の写真家たちによって繰り広げられました。
ブレやピンボケ、粒子の荒れを多用する手法は、その後コマーシャリズムにも活用されるに至りますが、今、私がこれらの上っ面だけを真似たところで何の意味もなく、単なる失敗と見なされるだけでしょう。
何らかの自分ならではの「やむを得ぬ感じ」が写っていなければならないと思うのです。
自身としては相応の挑戦をする心持ちでした。
そこでパートナーにはほぼ一年ぶりの<OM-2 SPOT/PROGRAM>をチョイス。
とてもブレにくいOMヒトケタ機の中で、この機種の異色というべくタイムラグの大きさは幾分でもブレ易いだろうとの想いからです。
OMシリーズには同様のカメラで<OM40>もありますが、これは昨年夏のお題「モノクローム」で使用しました。
多くのカメラがあると、出番がない者に恨まれるような気がして、どうもいけません。
凡そ2週間ほどで撮った1本のフィルムからこのカットを選びました。
先々週の土曜日、弟と鵯越の墓掃除に行った際の墓苑までの坂道すがら、ある地下歩道に出会したのです。
しかし、そもそもこういうものはさほど珍しくないのかも知れません。
上の幹線道路には向側に渡るための信号はおろか横断歩道のゾーンすら描かれておらず、恐らく地元の人は普通にこれを使っているのでしょう。
それでも私には珍しかったし、何よりも土管を活用したと思しきその天井高は子供の背丈ほどしかないのが驚きでした。
長さ凡そ15m、蛍光灯だけが照らす土管内は当然ながら薄暗く、しかし、すぐ先の外界から射し込む日の明りは、ちょっぴり幻想的に感じられたものです。
早速カメラを取り出し...ただし、何時も普通に撮るようにしていては手ブレなどしませんから、せめてはシャッター速度を1/2程度にできるよう目一杯絞り込んで...
...写真としてカチッと写ったモノではなく、自身の印象を絵画的に定着できれば、と考えておりました。
最明部である蛍光灯のカタチだけはそれなりにシッカリと定着させてから僅かにカメラをブラせる感じでレリーズしてみます。
大きなタイムラグも相俟っていい感じ...と、ふと背後から(弟ではない)人の気配がしたと同時に、「すみませんよ...」の声。
60代と思しき男の人が背中を丸め、頭を傾げながら私を追い越して行ったではないですか。
「おっとっと」
再度巻上げ、Shoot!
少し慌てたこともあり、実にいい加減にブレてくれたのであります。
f16 1/2 FUJICOLOR100 記録用
宇宙船の通路とか、そんな未来的な感じですね。
1/2ですからね、移動する人物の被写体ブレも手伝ってか、人らしからぬロボットのようなシルエットが、あっちへ行くのか、こっちへ来るのかわからない、そんな不気味な曖昧さに、小さくも叫び声を発してしまうような。
そういえば、ムンクの かの絵はブレているような描き方のようなきがします。
こういう写真はご覧になった方がお好きなようにお感じになればいいのですが...
いや、私が撮る時に考え、そして仕上がりを見て確認したのは、まさに仰るようなことなのです。
ちょっと愉快で嬉しい思いをさせていただき、ありがとうございました。
さて、カメラ側のブレを活用するのは、確かに表現主義的な姿勢だと私は思います。