2014年 07月 18日
綻びの連鎖
会長からも告知いただき、多くの方にご覧いただいたようです。
改めてお礼申し上げます。
さて、かの提案は、決して訪れて欲しくないけれど、しかし覚悟はしておかねばならないという切実な想いから自ずと生まれたものでした。
即ち「感度100のフィルムがなくなったら自分はどうするか?」です。
そもそもの自身がより希望するのは「100よりも低感度のフィルム」であり、適わないからこそ選んで主流としてきた感度100ともいえます。
いわば「これ以上は譲れない」としていたラインがまた引き上げられるのは、もう受け入れ難いものなのです。
さて、そんな具体例を示すのは次回として、感度100が標準としてなければならぬ理由として、私は「カメラ内蔵の露出計が基準としているから」という定義をしたわけですが、それが何故蔑ろにされる今日を迎えているのか、をまず考えてみます。
前回私は、フィルムという実体からフリーになったデジタルの流れの中での話をしました。
ただし、フィルムとデジタルが異なるのはいうまでもないことです。
にも関わらず、つい同じように考えてしまういがちなのは、両者の重なる部分があるが故にであります。
目的は同じであり、機材とそれを操る撮影時の躯の動きもまだまだ似通っています。
違うと感じる部分の大小は人それぞれでしょうが、一つだけいえるのは、双方に触れる者はその差異を認めるべきだということ。
その際、フィルム側の視点からデジタルにないモノねだりをすることは許されても、その逆はできないのを弁えねばならないというのが、「既に終り、先のない存在」と接する際のマナーとも考えます。
その上で、フィルムの基準を遵守すべきだと述べたつもりです。
ところで、どんどんフィルム感度が上がっていった中で、どうして「100を基準」が見直されることはなかったのでしょうか。
私の信念みたいな「太陽の明るさは変わらないんだから当然」ですが、光を感じるわれわれの眼とは別にフィルムの基準が変ってならぬ理由はないといえばないのですね。
カメラの方だって「F2のレンズ付、最高シャッター速度1/500」というスペックのカメラが一般的だった1960年頃と1990年の「1/8000シャッター搭載のレンズ交換自由な一眼レフ」を較べればその差は歴然。
況してや、衰退による縮小も必要なかった時代ですから、基準の変更も遥かにすんなりと進んだと想像できるのですが...。
「すればできるのに敢えてしなかった」というのが私の考えです。
既にDXコードの定着で感度を意識しなくても済むようになったこともあるでしょうが、やがて「フィルムそのものを意識しなくて済む」が定着してしまったのが最大の理由だと思っています。
デジタルカメラがフィルムを衰退させたのは確かに事実だとしても、何度もいうように違うモノであるべき両者の対比ばかりが事の全体を伝えるわけではありません。
それ以前に、フィルムという現物を蔑ろにするような出来事があり、そもそもの衰退の道筋ができたからこそ、単にデジタルが取って代わったと考えることはできないでしょうか。
写真にはカメラボディ、レンズ、そしてフィルムという3つの機材が不可欠です。
ボディとレンズが一体で切り離せないカメラの方がむしろ多いとはいうものの、フィルムだけは必ず撮影者が選び装填しなければなりません。
これらを一切不要で不可能としたのがいわゆる「使い捨てカメラ」でした。
以前書いたように、私はこのシステム自体がフィルムを死の淵へと追いやったのだと思っています。
デジタルの世界でもバカチョンコンパクトが携帯電話によって浸食されるようになってもう久しいわけですが、似た状況だったといえるでしょうか。
つまり、モノへの意識が薄れると内外から崩れ始めるということです。
レンズ交換ができないからこそ、明るく描写の優れたレンズを搭載することに切磋琢磨した1960年頃のレンズシャッター式レンジファインダー機の時代。
想えば、カメラ、レンズ、フィルムの3つの関係が最も好ましく相互し合っていたのがこの時代だったのでは...。
これらの雰囲気を保ったまま一眼レフが全盛を迎え、好きなレンズを選べるようになります。
ところがやがてズームが台頭、人々が選んだのは「レンズ交換ができるのにせず、薄暗い世界に止まること」でした。
撮影にとってさほどメリットがあるわけでもないプログラムAEというのも、こんなズームと組み合わせるには、まさに打ってつけだったという気がします。
一眼レフよりも早くAFも含めた全自動化を果たしたものの、「コンパクトカメラ」としてより簡便に撮れるカメラという製品カテゴリーに追いやられていたレンズシャッター式レンジファインダー機も相次いでズームを搭載するようになります。
それが当り前になり、ふと気付くと「38mm〜110mm F4.5〜11」といった凡そ感度100では使い物にならないようなレンズが付いているのが「一般的カメラの姿」となっていたのです。
これらのいわゆるバカチョンは、何もしないでいい風でありながら相応の設定はできるようになってはおります。
でも、まさに標準から外れた、事実上感度400でしか使えないようなシロモノでは何をかいわんや。
そんな時代に「使い捨てカメラ」は生まれました。
F8程度の絞りなし広角単焦点プラスティックレンズを付けたオール樹脂のモジュールに感度400のフィルムをセットした状態で販売、フィルムは装填、取り出しともに不要で撮影後はそのまま現像に出す...これが大当たりし、フィルム消費はどんどん膨れ上がったのです。
何事においても意識することが全てであり、必要な私にとっては考えられないことであり、無用のゴミに過ぎないモノ。
ただ、未だに一度も使ったことのない私でも、撮影時の気分に限っていえば、ズームコンパクトなどよりずっと軽快だろうと想像はできます。
慌てたカメラ各社は相次いで高級コンパクトとやらを出しましたが、最早この流れは止められませんでした。
「欲しい新製品がない」なんてことではなく、「モノに対する意識が薄れた(意識を薄くさせようとした)」次点でモノに対する敬意(即ち、喜びや驚き)もすっ飛んでしまっているのですから。
前述の「操作するボディ」「描写を得るレンズ」「結果を残すフィルム」という3つを意識することで成り立ち、進化してきた世界も崩れ去ってしまって当然かと。
とまれ、この「使い捨てカメラ」こそが、「感度100が標準」というルールをも形骸化させてしまった...否、フィルム業界もその方が都合が良かったのでしょう。
銭ゲバの連中にとっても稼ぎ頭を「標準から外れたモノ」なんて風にいえませんしね。
f5.6 1/500 Kodak GOLD100
いまだにおぞましい存在です。たしかにこれが元凶のような...
人間が習得するものの中で、小型カメラで写真を撮るなんてことは、ごく簡単な部類に入ると思います。
仮令、30年前のフィルムカメラでも。
自転車乗るのと変わりません。
自分で漕いでこそ自転車なのに、それをしないようにさせることばかりやってきたかと。
でも、結局この方向には人にやってもらうだけという終着点しかないんですね。