2014年 08月 09日
気持の行方
「いい音質でじっくり聴く」という考えや欲求が消えないまでも、今日、多くの人はオーディオセットの前に座してCDを聴くよりもiPod、否、iPhoneでデーターを再生する手軽さと身近さを選ぶわけです。
そしてカメラも「機能の一つ」としてiPhoneの中に組み込まれているのは今さらいうまでもありません。
かたや、写真を撮る専用道具たるカメラにも入った動画撮影機能。
最早動画と静止画の関係は「高速連射による動画」「動画の一コマたる静止画」ともいえそうです。
(当の私もその最たる一人ですが)いくら「静止画を撮るのと動画から一コマを選択するのとでは本質が違う」としたところで、「CDをいいスピーカーで聴くのとヘッドフォンによるmp3とは違う」といっているのと所詮は変わらないことなのでしょう。
全ては結果オーライ。
カメラという装置なくしては得られない写真にはもともとこんな側面があったため、「フィルムがデジタルになっても写真の本質は変わらない」などといい聞かせるようにしてきたけれど、もうそうはいっていられないのは明らかです。
それでも流れが止まることはないでしょう。
天下のNIkonが<Df>でしたのは、結局揺り戻しにすらならなかったということです。
われわれの気持などとは無意味なところで総てを取り込み収斂するしかないのがデジタルだから。
よって私は敢えて「デジタルカメラにこそ未来はない」との諦観を抱くに至りました。
だからなおさら、このままどんどん行ってしまって欲しいのです。
結果、想像もつかぬモノになるも良し、消えてしまうも良し。
だけど、そこには私の気持も不要です。
気持にはカタチがないかも知れませんが、だからこそカタチあるモノに寄り添ったり宿ったりするのだと思います。
CD然り、デジタルカメラ然り...デジタルでありながらカタチを纏っているのは、即ち半端に過ぎなかったことに多くは気付き始めているのでしょう。
私の場合、自身の気持を持って行くところがあるとすれば、それはデジタルではないカメラに戻ることだと行き着いた次第です。
多くの人が気持の持って行き場所に戻るのが先か、フィルムがなくなるのが先か...皮肉なことにその重要な鍵を握っているのがデジタルカメラの近未来となりましょうか。
f2 1/250 Kodak GOLD100
ほぼ10年前、欲しかったイオス5Dは、今はちっとも欲しいとは思えませんし。
今回部屋の整理で、今まで使ってきたビデオカメラを3台処分しました。1台あたり5年です。現行のは3年目ですから、あと2年が限度だと思います。
デジタルカメラもビデオカメラも消耗品といってしまっていいような気がします。その時代の再生機器に依存してますから、時代を超える事は困難です。実際、ハイエイトのビデオテープを再生できるものがありませんし。
消耗品に30万、あるいは100万近くも出せない。でも、、出す人がおられる。ご祝儀感覚かもしれません。
しかし、カメラメーカも儲けが必要でょうからしょうがない事なんでしょうね。
Nikonのプロ用機はF3までとその後では別物といった感じですね。
カメラ店でショーウィンドーに並んでいるのを観てもその感を新たかにします。
値段も相応に...F4やF5の値札やオークションでやり取りされている価格を見ると哀しくなりますね。
以前にも書きましたが、カメラを弄るのは性行為と同じだと思っています。
即ち、結果のみを追求するデジタルとは何か、改めていうまでもないでしょう。
一方で目的を超えて行為そのものまでを愉しむというのはヒトならではのことであり、アイデンティティだと考える次第です。