2013年 11月 29日
これからも...
プラスティックを主体としたボディがもたらす様々なチープ感は否めませんが、これとて他の(多くはより以前の)金属感を持ったカメラと較べなければ、気にすることではないかも知れません。
しかし、こんなことを論う私の拘りなんてものは、未だカメラというモノにアウラがあった頃の残滓に過ぎないのでしょう。
f11 -1EV Auto Kodak GOLD100
f5.6 Auto Kodak GOLD100
前回にも少し話題にした<NIkon Df>というカメラを見て、基本的には賛同しながらも、どうしてもちぐはぐな感じを拭い切れないのは、単にデジタルとアナログの問題だけではないことを思い知りました。
<OM20>を使いながら、そのアウラ在りし日を偲ぶことしか自身の気持の持って行きようはないのを覚悟した次第です。
こうやってたまに使うのもいいことなんだと...ズームなんぞわざわざ値打を下げる必要もないでしょう。
f5.6 Auto Kodak GOLD100
「金属」だから良いのではなく、その素材の持つ特性を理解し造形へと昇華させていたのかどうか。
だから“風”には(私は)違和感しか感じないのだと思います。
ちなみにプラのフタケタ機種。
たしかに安っぽさは感じますが、プラらしいという面もありますね。
もっと自由にやれば良かったのかもしれませんが、まだまだプラの素材に対する解釈が弱かったのと、“時代”の雰囲気はあったのでしょう。
技術の喪失というものは意外にあっという間です。
真鍮がいいとはいいませんが、今ではもうできないとか。
だけど、ほんとうにそうなんでしょうか。
私は今は「間に合うモノ」が多すぎるだけだという気がしています。
そして受け手も間に合えばいいとしてしまうんだと。
これだけのために、じゃないといけないのですね。