2013年 11月 16日
煩悩のカタチ
チョイスする基となるカメラの台数は、あれよあれよという間に増え続けています。
今後もこの数はなお大きくなり続けるのでしょうか。
ただ、これらの裏にある事情を考えると、単に幸せたることと喜んでばかりもいられないような気がしてきます。
f2.8 1/500 Kodak GOLD100
かつて高嶺の花だったカメラというものの価値が暴落してしまったからこそ、しがない一介の庶民たる私でも斯様に数多くを有することができているという事情です。
例えば、<Konica IIIA>の現役当時の定価が34,900円。
これは現在の<Nikon D4>よりも高価だと考えていいでしょう。
否、たとえ今なお当時の価格34,900円のままだとしても、これらを毎月のように2、3台購入する甲斐性なんて残念ながら私にはありません。
中古とはいえ、1万円もしない金額で手に入れられるから、ついつい私でも手が出るというのが先ず第一の現実なのです。
f4 1/100 Kodak GOLD100
「いい時代になったんだから楽しめるだけ楽しめばいい」という気がある一方で、「たとえ価格が安くなったとしても自身のほんとうの愉しみというのは、高価なモノを手にするのと同じ質なのだろうか」「本来なら分不相応なことをしているのではないか」と、ふと自問してしまうことがあります。
そして初めて手にした<OM-2N>の表示用露出計が壊れた時、数日間OLYMPUSに預け、ただジッと治るのを待つしかなかったこと、その際の気持を想い出すのです。
これに較べれば「気に入ったら2台持ち」なんて嘯いてしまうところに多少の傲慢さがあるのは否定できません。
自身としてはかなり純粋な気持で手許のカメラを愛用しているつもりでいて、喰い散らかしをしているようなさもしさを感じてしまうことがあります。
f4 1/250 Kodak GOLD100
いくらか方向性の違いがある事にほっとしつつ(?)、目の前に広がる喰い散らかしたかのようなカメラの群れに、ニヤけつつもどこかチクリ。
汚れた個体を磨いているうちに情が移るのですが、分かっていても、汚れたカメラなど身近に置く気にはとてもなれず、、、
以前おっしゃっていましたが、最新のデジを追わない事で広がる世界の煌びやかさに、少々中てられているのかもしれないと思ったりします。
はい。
またやってきます(^^;
べつに、贔屓目に見ているわでではありませんが、、。
知行合一というか、写真について熟知し、引き込ませる見せ方を実践しておられるように感じます。
今回もどれも懐深い。 どの一枚も見せ所があり、盗みたい技量であり、私は目が離せないのです。
これほどの写真、陽の目を見ないカメラにとっては冥加の思いではないでしょうか。
カメラを食い散らかす、、は、 多情仏心という事ではと思うのです。
まぁ、どんなに足掻いたところで、この世は変わります。
概ね気に入らない状態に。
少なくとも私はそう感じてきました。
そんなニンゲンですから、これらの旧いカメラが新登場した時にリアルタイムで見ていたなら、当時の世相も含めて気に入らないことの方が多かっただろうと想像できます。
今、過去のカメラを媒体にして、それら一切の過去をも概ね肯定的に見ることができているのかという気がしております。
自分の抱くさもしさやはしたなさは、遅れてきて今更…という気持が含まれているのかも知れません。
とまれ、今度は何を⁈
ちょっと買い被り過ぎだと申し上げるほかなさそうですか…
まぁ、かれこれ30年間、相応の態度で向き合ってきたかな、というか気はあります。
ただ、真剣というには程遠いいい加減さで、都合のいい時の逃げ場所にし、怠惰の捌け口にしてきたとの自覚も半ばあるのです。
それもこれも一切合切として見えるものは確かにあるかも知れませんね。
OM一筋だった者として、多情仏心とは、感慨を受け、些か考えさせられるお言葉です。