2012年 04月 15日
遙かなる“お手本”
氏は私が独り勝手に師匠のように見つめた写真家です。
写真界の重鎮の1人でしたが、作家としての発表よりも、むしろ後進育成につとめたことでよく知られたといえるでしょう。
とにかく写真巧者、そしてあまりに写真とカメラを愛した人となりがうかがえます。
f5.6 Auto Kodak ProFoto XL100
写真を撮るようになってからの年月が人生の半分を超えて以来、かれこれ10年になります。
直接人に教えを乞うのが嫌いなので、ほぼ我流でやってきたわけですが、それ相応に本は読んだし、人の写真も見てきたと思います。
好きな写真家や写真も人並み以上にあるつもりです。
でも、ある写真に感銘を受けたといっても好き嫌いに毛の生えた程度のもので、自身でも同様の、よしんばより優れた写真を撮りたい、との切実な想いはありませんでした。
まぁ、写真やカメラを生業にするつもりなどなく、趣味にする者としてはごく在り来たりなことだともいえるでしょうが。
立木義浩氏の写真に息を呑んでも、削り取りように拵え上げていく妥協を許さぬ撮影は望めません。
藤原新也氏の写真に胸躍らせたところで、氏の旅と行動を切り離して考えることはできません。
何よりも、全く別の人間としてあるわけですから、眼差しも感受性も異なります。
その果てに生まれたモノを望んでも仕方がないでしょう。
ただ、「自分にしか撮れない写真もあるはず」と何処かで想ってはいました。
いわば表現というものに門前払いされるように、自ずからで限界を想定した上での諦めた視線で「好きな写真」を眺めていたわけですが、一個の青年の志として想えば褒められたものではないと振り返ります。
つまり、これこそがシロート(止まり)の性根なんだと、またしても諦念が呟くわけですが。
f4 1/30 Kodak ProFoto XL100
そんな私でしたが、松田二三男氏の写真には違った感じを抱きました。
「こんな具合にさり気なくオシャレに撮りたい」と願ったのです。
氏の写真が、揺るがぬセオリーと何でも撮りこなせる技に裏打ちされているのはシロートにもすぐ分ります。
それでも、否、だからこそ「手本」と崇めることができる気がしました。
まさにヒヨッコがこれから写真を習得していく(即ち、カメラを自在に扱う)上で必要なものが鏤められていると感じたからです。
基本習得には得てして邪魔になる「他者との違いを主張する表現」というものがあからさまに顕れていないのを感じ取ったせいでしょう。
尤も、だからこそセンス溢れる氏の写真は洒脱の域にあるのであり、「手本」とするにはあまりに遠いものであったことを、撮れば撮るほどに感じることになったのでした。
松田二三男氏の唯一といっていい作品集『光彩瞬時―松田二三男作品集』が、今も手許にあります。
お得意の街角スナップの中でもリフレクション(反映、反射)モノは、とりわけ繰り返して見る作品です。
映り込みを活かすにも、カッチリと決めることができず、かくしてすぐ曖昧なボケに逃げてしまう‥そんな選択や辛抱がヌルい自身に嘆きつつ、なけなしの“左もたれ”ばかりのアップになりました。
f4 Auto +1.3EV Kodak ProFoto XL100