2011年 12月 25日
モロビトホロビテ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
初めてこの賛美歌を聴いたのが何時だったかはハッキリ覚えていませんが、幼稚園に行く前だったのは確かです。
もちろん、その頃の私に歌詞の意味など分るわけもなく、またそもそもどうでも良かったけれど、「主は来ませり」という箇所がやたらヒステリックに感じられ「シュワ、シュワ」という印象が強く残りました。
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その後程なく幼稚園のクリスマス会とやらで何度も耳にすることになり、その歌詞の大まかな意味も教わったように思うのですが、所詮人間以前のガキがキリスト教や賛美歌を解するわけはありません。
相変わらず「シュワ、シュワ」の範疇を超えることはなく‥いや、そればかりか、これを機に、途中をすっ飛ばして改変したカタチで冒頭だけを誤って覚えてしまったのです。
さすがに「シュワ」は「シュハ」であると修正されはしましたが、お恥ずかしながら私の中では中学生の頃まで、
諸人滅びて 主は来ませり
ララーラララララ ララーラララララ
主は来ませり 主は、主は来ませり
として定着していたのです。
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いうまでもなく第一次遭遇による「シュワシュワ」の絶大な影響力は窺えますが、「こぞりて」という意味を知らない者が「ほろびて」と聞き間違え、正しいと思い込んだのがミソです。
ただ、荒唐無稽なようなこんなうろ覚えにも自分なりの意味づけがあり、その後に改めて考えてみても、相応の正当性もあるように思えます。
「人間というモノは主がお創りになった」を説く聖書です。
『アダムとイヴ』や『ノアの方舟』の話などを鑑みるに、間違い放題を犯した人間はやがて滅び、そしてまた主が現れる‥という解釈は強ち間違いともいえないでしょう。
宗教というモノは、超人的な存在が、発生から滅亡まで人間の運命を握っていることを誇示するものだという想いが子供ながらにあったからかも知れません。
神でも仏でも、所詮は自然のメタファーであり、その表し方に人の知恵や風土、文化の差異を観るという面白さを解せない頃の思い込みですが、自分でもなんとも微笑ましく、何時までも忘れられないことであります。
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