2010年 09月 04日
停滞
もともと数を撮らない私にも、間違いなくこの傾向が見られるようです。
この背景には、「ダメでもともと」という軽い気持や「やり直しが効く」という安堵感があると思われます。
今まで撮らずにしまっていたようなケースでも、「ダメでもともと」と撮るようになったのは、何故なのか。
また、「撮ってみたら案外ダメでもなかった」のはどれくらいあったのか。
これらを振り返ってみると、「ダメでもともと」と臨んだもので、結果上手くいった例はまずないようです。
残すという点では、確実に記録されたという程度に止まります。
一方で「やり直しが効く」からといって、とことん納得が行くまで追い詰めるには至らないようです。
被写体の事情による場合はまだしも、多くは自身の根気が続かないためであり、所詮は素人の手慰みレベルだといえましょうか。
これでは一発勝負のフィルムの時と結局は同じだと…否、むしろ「後戻りができない」というある種の退路を断った状況こそが、未熟者にはいいように作用することが多いような気がするのは、錯覚でしょうか。
修業が足りないといえばそれまでですが、「デジタルならではのカメラの進歩」などを云々する前に、デジタルならではの利点を活かす、ということができていない自身は、最早どうしようもないという気がしています。
何事も他者や外側に求めるだけでは意味がないのでしょう。
f5.6 Auto Kodak E100G
デジタルで撮ってて思います。100枚、200枚はざらに撮っています。これがデジタルの真骨頂といえばそうなんでしょうが・・・殆どがPCの上で削除となります。フィルムで撮る場合、私の緊張感が続く限界が24枚ですので、基本24枚撮りを使いますがそれでも凄くエネルギーを使い、ヘトヘトになります。
結局、デジタルなんでとりあえずこれも撮っとか~になっているように思います。でも、「とりあえず」はやはり「とりあえず」にしかならないのでしょうか。私の場合、ゴミの量産になってしまっています。
今回の写真、横にしたらフランス国旗なんてお馬鹿なことを考えてしまいました。
記事の内容、まったく同感です。
いつでも消せるのとRAWで撮れば自分でレタッチ(特にWB)も可能と言う二つの点が
駄目元=駄目駄目写真を増産する元になっている気がします。
フィルムを何本か撮って感じたのですが、撮影枚数で見ると、デジタルよりフィルム
の方がまともに撮れているコマが多い気がしませんか。
今現在、ようやく旅写真の整理が終わったところですが、あまりのゴミ写真の山に
ほとほと嫌気が・・・いじればいじるほど泥沼にはまる感じです。
<E-3>の、これまでのトータルの撮影数は10,000カットに及ばないというと、大抵の人には驚かれます。
3年弱でこの数ですから、それでも自分としてはかなり多く、フィルムの1.5倍くらいでしょうか。
要するに、自身としてはフィルム、デジタルともに、それほどスタイルは変っていないように思います。
撮っても絵にならないモノは、ある程度撮る前に分るようになっていますが、「タダで記録できるのならしておこう」という貧乏根性が働いていることは否めません。
私が写真を始めた頃に感じたのは、仰る通りのことだったように思います。
一眼レフは既に自動露出が当り前で、加えてバカチョンは殆どがAFでした。
そして撮ったネガフィルムを「同時プリントで」と出すわけです。
プリント代は安いし、露出やピントはまず大丈夫だから、取り敢えず全部をプリントしてしまうという構えです。
昔、必死に露出とピントを合せて、なお、プリントするのに適したモノを選んだ果に残ったモノと経緯が違います。
同時プリントで得たモノの中で優劣はありますが、プリントした以上残ります。
かくしてアルバムには70/100点程度の同じような写真が陳ぶことになり、少数の選りすぐりが残った昔のアルバムに見劣りするわけですね。